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横光利一 声: 羽多野渉
武器 派閥 新感覚派
代表作 日輪 機械
回想

かつて「文学の神様」と呼ばれた文豪。その二つ名に相応しい真面目でストイックな性分で新しい文学を追求し続けることに余念がない。盟友である川端康成のことは、言葉を聞かずともその目を見るだけで理解してしまう特技を持つ。無機物を擬人化させたような不思議な表現をする癖がある。

モデルになった横光利一はこんな人!

筆名:横光利一(りいち)
本名:横光利一(としかず)
出身地:福島県北会津郡(本籍地は大分県宇佐郡長峰村)
生年月日:1898年3月17日
没年:1947年12月30日(満49歳没)

生涯

鉄道の設計技師であった父・梅次郎の長男として誕生。代々藩の技術を担当した名家の出身。
父が鉄道敷設工事の仕事をしていた関係で、幼いころから各地を転々としながら育った。

尋常小学読本を最初に学んだ学年にあたり、日本近代の国語政策のもとで教育を受けた第一世代となる。
少年時代はスポーツ万能の少年であった。

1916年、早稲田大学高等予科文科に入学。文学に夢中になり、文芸雑誌に小説を投稿しはじめる。

横光はなかなか学校には行かず、下宿にこもって小説を書く日々を過ごしていた。

1919年、菊池寛に弟子入り。

1921年には菊池の家で川端康成と出会い、生涯の友となった。

1923年に菊池が創刊した『文藝春秋』の編集同人となり、同誌に作品を発表して文壇にデビュー。

また1924年には『文藝春秋』の同人らと『文藝時代』を創刊し、新感覚派の作家となる。

やがて横光は民族意識の高まりとともに、軍部に同調するようになっていく。

戦後、戦時協力をした“文壇の戦犯”と非難を受けることになった。

とはいえ、それも戦前・戦中における彼の名声がいかに高かったかということの表れともいえるだろう。

作品の特徴

「卑弥呼、もし爾が我の子を産めば姫を産め。我は爾のごとき姫を欲する。もし爾が彦を産めば、我のごとき彦を産め。我は爾を愛している。爾は我を愛するか。」(『日輪』より)

菊池寛門下にて川端康成とともに新感覚派として頭角を現し、モダニズム文学の寵児となった大作家。

当時プロレタリア文学が隆盛を極めていたなか、芸術としての文学を推し進めた作家である。

戦前には文学の神様と呼ばれ、志賀直哉と並んで小説の神様とも呼ばれた。

新感覚派の定義は難しいものの、一般的には擬人法や比喩を取り入れた表現を取り入れた文体を特徴としているとされる。

つまり現代の文体の基礎となるものであり、現代文学の直系に位置する文豪であるといえる。

戦中期には積極的に戦争協力を行い、戦意高揚のための文章や、特攻精神の賛美を行った。

そのため戦後では非難を浴び、それまでの名声を失うことになったものの、死後にその業績を改めて評価されることになる。

人間関係

【菊池寛】

恩師。

関東大震災では真っ先に菊池の無事を確かめたという。

【芥川龍之介】

友人。

上海を見ておくべきだと横光に助言した。

【志賀直哉】

並んで小説の神様と称せられたライバル。

志賀は横光の文学を認めなかった。

趣味・嗜好

【国粋主義】

芥川龍之介の勧めで上海を観光したり、海外を歴訪する中で民族精神に目覚め、国粋主義的な発言を多く行うようになった。

ある意味では時代の変動を繊細な精神で感じ取った作家ともいえる。

【恋愛観】

早稲田大学の学生であったころに、友達と3人で家を借りて住んでいた。

夏休みに東京に帰ってみると、前の下宿から連れてきた女中が友人と寝ているという女中寝取られ事件を経験した。

彼はこの事件を生涯の過失と感じており、それ以来女性も友人も信じなくなったと語っている。

代表作

『日輪』
卑弥呼を題材にした物語。

生田長江が訳したフローベールの『サランボー』から影響を受けており、反復表現が多用された詩的な内容となっている。

『蝿』
さまざまな事情を抱えた馬車の人々が、それとはまったく関係なく馬車の転落で命を失うまでを描いた短編。

死の不条理性と平等性を暗喩しているとされる。

『機械』
町工場の人間模様を描いた物語。

淀野隆三翻訳の『スワン家の方』の文体や、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』に影響を受けたといわれている。

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