中原中也 声:柿原徹也 | |||
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武器 | 銃 | 派閥 | – |
代表作 | 山羊の歌 | 在りし日の歌 | – |
回想 | あらくれ | お目出たき人 | 歌のわかれ |
注文の多い料理店 | – | – |
背は小さいが態度は大きい不良青年。相当な酒乱で絡む時には詩情溢れる不思議な罵倒をする。暴力も振るうが、喧嘩になると負ける。実は他人とも仲良くなりたいが、対等な関係の築き方がわかっていないようだ。そんな彼だが詩を詠ませると見事な感受性を発揮する。彼にとって詩は唯一の自己表現できる手段なのだろう。
モデルになった中原中也はこんな人!
筆名:中原中也
本名:筆名と同じ(旧姓は柏村)
出身地:山口県吉敷郡下宇野令村
生年月日:1907年4月29日
没年:1937年10月22日(満30歳没)
生涯
軍医であった一家の長男として誕生。
小学校時代は成績優秀で、神童と呼ばれた。
山口県立山口中学校に入学後は読書に耽溺し、短歌を志す。同時に成績は落ち、飲酒や喫煙を覚えた不良生徒となった。
落第後、1923年に京都の立命館中学校に編入。詩人の富永太郎と親交を結ぶ。
1925年には大学予科受験を理由に上京。
大学をすぐに退学になるが、実家には知らせずに創作活動を行い、同人雑誌『山繭』にを寄稿して詩人を志す。
1933年に初の詩集『山羊の歌』を出版しようとしたが失敗。
しかし12月に『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を刊行して、ランボーの代表的訳者として名を立てることに成功する。
1934年には『山羊の歌』を出版し、詩人として好評を博するようになった。
しかし1936年に2歳になる息子が小児結核で死去して以降は精神と心身を病み始めていく。
翌年、急性脳膜炎と診断され、30歳の若さで世を去った。
作品の特徴
「サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(『山羊の歌』より))
口語体による詩を多く発表しており、生前から高い評価を受けた詩人。
宮沢賢治の作風に大きな影響を受けているとされ、口語によるオトマノペは中原独特のセンスにあふれている。
人間関係
【宮沢賢治】
大きな影響を受けた詩人。
宮沢の死後に刊行された『春と修羅』に推薦文を贈っている。
【小林秀雄】
詩人仲間の友人。
【太宰治】
中原が酒に酔っていじめて以来の不仲。
しかし中原の死に際して、太宰はその才能を惜しんだという。
趣味・嗜好
【酒乱】
すさまじく酒癖が悪い。
小林秀雄、井伏鱒二、大岡昇平らが常連だった青山二郎の義弟が経営するバーに入り浸っては誰彼構わず絡んで喧嘩を売り、バーを潰したという逸話が残る。
【黒づくめ】
黒いマントや帽子を好んでいた。
黒づくめの服装は、中原のイメージとして定着している。
【子供好き】
息子である文也を非常にかわいがっていた。
文也が死亡したときは3日間寝ずに看病し、亡くなってからも遺体を抱いて離さず、なかなか棺に入れられなかったという。
翌年発表された『春日狂想』の書き出しは「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」となっている。
【恋愛観】
3歳年上の女優・長谷川泰子との同棲生活で知られる。
別れてから泰子が築地小劇場の演出家山川幸世の子を出産してからも、その子をとてもかわいがった。
自身の結婚に関しては素直に親の勧めに従っており、気性の荒い中原が大人しく言うことを聞いたことを周囲に不思議がられたという。
代表作
『山羊の歌』
処女詩集。
自由な宇宙観と口語によって描かれた作品。
その中の一篇、『サーカス』の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のオトマノペは、彼の自慢であった。
『在りし日の歌』
中原の死後に出版された第2詩集。
亡き息子・文也への献辞がされており、彼への追悼詩集となっている。
もっと詳しく知りたいなら?
中原の生家であった医院の跡地に建設されている。