国木田独歩 声: 増田俊樹 | |||
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武器 | 弓 | 派閥 | – |
代表作 | 武蔵野 | 独歩集 | – |
回想 | 武蔵野 | 武蔵野 | – |
常に情熱的で斬新な思いつきを語るが、落ち込むときにはとことん落ち込む浮き沈みの激しい性格。思ったことは率直に相手に伝える褒め上手なのでかなりの人たらしである。時代が自分の新しさについてこれないことを不満に思っているようだ。同じ不満を持つ田山花袋とはかつて新しい文学について語り合い、意気投合した仲。
モデルになった国木田独歩はこんな人!
筆名:国木田独歩
本名:国木田哲夫
出身地:千葉県銚子
生年月日:1871年8月30日
没年:1908年6月23日(満36歳没)
生涯
銚子沖で漂泊していた旧龍野藩士の国木田貞臣の子として誕生。幼名は亀吉。
父は司法省の役員となったため、国木田も幼少期は中国地方を転々としながら育った。成績優秀で読書好きだったが、いたずら好きな子供だったという。
1888年に東京専門学校英語普通科に入学。徳富蘇峰と知り合い、文学に目覚める。
創作活動を行う傍らでキリスト教の洗礼も受けた。
早稲田大学を退学後は山口に引っ越し、小学校教師や家庭教師などをしながら転々として暮らす。
1894年に『青年文学』に参加し、民友社に入って徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となった。
日清戦争にも海軍従軍記者として参加し、名をあげる。
1896年に渋谷に移住し、作家活動を再開。田山花袋や柳田國男と知り合いになった。
このころから小説家として活動を始め、1901年に初の作品集『武蔵野』を刊行。
この時期の活動がやがて自然主義の先駆けと評価されることになるが、この当時はまだ世間に理解されるには早すぎたため、生活は苦しかった。
1903年に『東洋画報』の編集長として抜擢された国木田は、編集者としてのノウハウを蓄積。1906年に12誌もの雑誌の編集長を兼任する。このときの雑誌に、現在まで続く『婦人画報』がある。
1906年に国木田は独歩社を創立し、友人の画家や作家を集めて5誌の雑誌を展開。しかし翌年独歩社は破産し、国木田は病に倒れる。
このころになって独歩の作品集『運命は』が評価され、自然主義運動の中心的存在と目されることになったが、独歩の病状は回復しないまま死去。
当時の独歩の名声は高く、葬儀には多くの文壇関係者が集ったという。
作品の特徴
「ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
まずこれを今の武蔵野の秋の発端として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。」(『武蔵野』より)
自然主義文学草創期の作家。
非常に写実的な文体を特徴としており、夏目漱石や芥川龍之介からも絶賛された。
新たな時代の潮流をもたらした作家だが、その作品は当時の人々には早すぎた。
皮肉なことに評価されたのは死の直前であり、そのころには国木田は当時は不治の病だった肺結核を患っていた。
人間関係
【夏目漱石】
同じく早稲田大学の出身であり、国木田を高く評価していた作家。
【田山花袋】
友人。
葬儀に参列し、国木田の人生を漢字一文字で表すなら“窮”であったと評した。
趣味・嗜好
【恋愛観】
佐々城信子との熱愛のエピソードが有名。
信子と恋に落ちた国木田だが、信子の両親からは強く反対された。信子は母から監禁され、別の男との結婚を強要される。
彼女と結ばれる日を夢見て、国木田は北海道の僻地に土地購入を検討した。
国木田の尽力によって信子は両親から勘当され、逗子で結婚生活を送ることに生呼応する。
しかしあまりの貧苦によって信子は失踪してしまい、協議離婚することとなった。
このエピソードは後に有島武郎によって『或る女』として小説にされた。
なお、信子の親戚の相馬黒光の手記によれば、国木田の独善的で男尊女卑的な性格に耐えかねたと語られている。
代表作
『武蔵野』
武蔵野の自然の美しさを写実的に描写した小説。
自然主義文学の嚆矢となったが、当時の人々には理解されなかった。
『独歩集』
1905年に刊行された作品集。
『運命論者』や『正直者』などの自然主義文学作品が収録されている。